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原爆一閃・私の体験記

            ―九死に一生・念仏に御仏の慈悲―

                       金 子 賢 子

 

 

   昭和二十年八月九日、炎暑大地を焦がすような灼熱の陽光が

その日も長崎の街々にくまなく照り輝いていた。境内の夾竹桃の

赤い花は、今を盛りと咲き誇っていた。

 魔の午前十一時二分、忌まわしい運命の原爆一閃。

青白い強烈な光の一瞬の記憶だけ残して、私は昏倒してしまった。

 家屋の一隅に立居している筈の私が、ふと気付いて見ると、

壁と材木と瓦の間に金縛りされたような圧迫感と、たとえようの

ない痛みとで、私は蘇った。その間の時間の経過は全く空白で

あった。私はその時初めて寺院全体の、倒壊を全身で感じ、

助けて!! 助けて!! と必死に救いを求めた。

声の限りに叫び続けたのであった。

 それからどれ位の時間が過ぎたであろうか。一声一声の力が

段々と抜けていくのを自分自身に感じた。次第に声は薄れ、

あせりの心だけが強く救出を求めていた。微かながら叫んでいる

事が私の生存の証しのように思われた。

 その一瞬である聖徳寺御本尊阿弥陀様のお顔が、私の瞼一杯に

広がったのです。慈悲の眼で見つめておられるお姿にすがり付く

ように私は腹の底から、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、と

称えた。無我夢中で仏の御名を叫び続けた。

 ふと気付くとすぐ近くから、助けて! 助けて! と苦しそ

うな声が聞こえてきた。ああ私は独りではないのだ、多くの人々

が私と同じような運命に襲われている事を感じた。もうろうと

した頭に、子供達の顔が走馬灯のように浮んで来る。出征中の夫、

年老いた姑、郷里の両親の姿等々私は一人一人に心の中で静かに

時間をかけての別れを告げた。

 それからどれ程の時間が流れたのか、無意識にお念仏をくり返

す間に、ふと一条の明るみを感じた。

微かな人声のようなものが私の耳をかすめたのである。私はすで

に覚悟の念仏である筈なのに、力湧き、またしても残る力を振り

絞って助けを求めていた。強い生への執着であろう!

 その声は段々はっきりと聞こえてきた。

 『奥さんですね!材木を取ってあげますよ!』

 仏とも思える力強い声が、私の意識をはっきりと蘇らせてくれ

た。そして油汗のにじむ程に私の身体をおさえつけていた木材が

少しばかり取り除かれた。とたん胸部にすっとした呼吸と、血液

の流れが感じられた。だが、下半身をはさむ木材の多くは、寺院

建築の巨木であるため、一人の救出者の手に負えるものではなか

った。『人数を集めて来ます』の声を残してその人は立ち去った。

またしても、不安な孤独の時が流れた。

 なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、・・・・御仏に一心におすが

りする。いくらか生への望みを得た私は、子供達の安否を必死で

気遣った。こうして救出の時を待つ間の永さを喘ぎながら耐えて

いたとき、私を呼び続けている激しい泣き声が聞こえてきた。

二歳十一ヶ月の幼い児に、どう言ったら分るのか、私はあるだけ

の力をふり絞って『お母さんはここよ!』と強く叫んだ。『よそ

の小父さんに、お母さんを助けてと言いなさい!』『小父ちゃん

を探しなさい!』私は繰り返し叫んだ。その声が届いたのかどう

か分からないが、私の耳には泣きじゃくる声が積み重なった材木

の上下、左右に場所を移しながら聞こえるのみであったしかも張

りのあるその泣き声は、無事を報らせる証しとして私に大きな安

堵を与えてくれた。

 当時聖徳寺は、百三十人の徴用工の寮として義務付けられてい

た。三菱兵器製作所勤務の人たちで一日三交代になっており、ち

ょうど夜勤の人達が床についていた時間であった。

『奥さん今出してあげますから!しっかりしてください!』と突

然田村寮長の力強い声がした。そして寮生達により私の救出作業

が開始された。後で聞いたところによると四男が木材の隙間をく

ぐり抜けて外に出て泣き叫んでいるのを、寮長が知り、『お母さ

んあそこ!』と教えられたことで私の被災を知ったということで

ある。

 私の上の巨木を取除く作業は困難を極めた。

 人力では寺院の梁の撤去は思うにまかせず、特に脚が大きな木

材の間にはさまれていて、引き出す事が出来ないとの判断から、

脚を切断しようとの話しになり作業は暫し中断されたが、切断す

るための道具が見当たらない。お陰で足の切断からは、免れたの

であった。

 巨木は十四、五人の男の力でようやく持ち上げられたと聞いた。

そして私の身体を引き出そうとしたが、木材に打ち込まれていた

太い釘が膝のあたりに刺さり肉に食い入り、身体の向きを変える

こともできない。私の身体を引き上げる力が加えられる度に、釘

は膝の肉を裂き、何かの金具が大腿部の肉を大きくえぐった。こ

の言語に絶する責苦に克ち、私の身体は八時間後にようやく救い

出された。幸いにも私の胴体の部分は吹き上げられた畳によって

覆われて大きな傷はなかった。

 戸板に横たえられて運ばれる時、私は異様な臭いを含んだ黒煙

に巻かれた。寺は小高い丘になっており、四面の街々は火の海で

あったパチ、パチ、と焼ける炎熱の中で人々が助けを求める様は

正に阿鼻叫喚の無間地獄であった。私は瀕死中にも、これは一体

何事であろうか、と生きている我が身を疑った。いつまた空襲があるか分からないからと、寮生の手で私は防空壕の泥の上にそのまま寝かされた。

 それから約二時間たって、中学三年の長男は助け出された。伏

せたまま家屋の下敷となり、十時間目にようやく救出されたので

ある。大きくはれ上がった顔にフラ、フラ、と壕に入って来た時、

九死に一生を得た母と子は、目を合わせても互いに言葉さえも出

なかった。田村寮長によると、『奥さんは虫の息の中から、長男

が台所近くに埋まっている筈だから、私より先に長男を助けて下

さい。と数回言われましたよ』との事であった。

 飲料水を初めパンの一かけらもない、飲水にならない井戸水を

長男に汲んでもらい、灯り一つない防空壕の暗がりで、飲ませて

もらった。それはすばらしくおいしい甘露の水、命の水とも思え

た。夜が明けてみると器半分程泥が入った水であった。

 五日目配給のおにぎりが届いた。私達の手に入るまで腐りネバ

ネバと糸を引き臭くて、吐気がして食べられなかった。

 一週間目に佐世保の日本赤十字社の、援護隊が三菱長崎製鋼所

で診療を始めた。寺から歩いて七、八分の地点である。診療所は

青壮年で傷が治る見込みのある人だけを受付けていた。田村寮長

は特に私の診療を頼みに行って下さった。私はその時初めて小さ

な布を探して来て私の顔を拭いてもらった。櫛一つなく、着るも

のもない。『奥さんあまりきれいにすると受付ませんよ』と寮生

に言われながら、また戸板の人となった。

 先ず驚いたのは、四方焼野ヶ原で小屋一つ残っていない。境内

のあちこちには腐乱した、多くの死体がそのまま横たえてあった。

私と同じ屋根の下敷になった方々の中七人の若い寮生の掘り出

しが遅く息絶えていた。共に力の限り助けを求めたものを!

人間の生死が紙一重の運命にある事を強く思い知らされた。爆心

地より一キロ米(メートル)余の地点にある我が寺の階段は山門

が崩れ、石碑が両側から倒れ落ち電線が飴のようにたれ下り、足

の踏み場もない。ともすれば戸板からころがり落ちそうになる。

八人の寮生が担いで降りて下さるのも容易ではない。

 有難う、有難う、私は心の中で手を合わせた。多くの方々の善

意により私はまだ生きている。如来様有難うございます。なむあ

みだぶつ、なむあみだぶつ・・・、ようやくにして石段を下ると

道端に重なった屍を荼毘に付しており、その煙に巻かれながら製

鋼所の玄関に着く。脇のコンクリートの上には浮腫した死体が

累々としていた。診療室はコンクリートの上に荒むしろを敷き、

男女の区別もつかぬ焼けただれた顔、傷で唸っている人が、重な

るように寝かされていた。

 私を診療した医師は、『この人は二、三日しか保たないからこ

こで診療しよう』と寮生に申された。『私はどうせ死ぬのなら、自

坊の如来様のおそばで死にたい。』と医師や寮生の止めるのも聞

かず連れて帰ってもらった。そして再び防空壕に寝かされた。後

で三菱製鋼所だけの死者二千数百人ときいた。

 こうした時肉親に知らせるのに電信、電話もなく使いに走る人

もなく、自分は安らかに如来様のおそばにまいるとしても、中学

三年を頭に七人の子供達は・・・ビルマの荒野に闘っている夫

は・・・年老いた姑はと、思いは脳裡を駆け巡った。

 壕の入口より差し込む淡い星の光は、いつになく冷たかった。星はこの地上の悲しい大変な出来事を、知っているのだろうか・・・その時私をのぞき込んでいる父の姿が見えた。私は自分の目を疑った。仏とも思えた。父は言葉もなく合掌した。

 私も心の中で手を合わせた。私がようやく『早く疎開してくだ

さいと周囲の方々に再三言われていたが』と言うと、父は『これ

でよい、これでよい、これでこそ如来様に申し訳が立つ、住職出

征中のことだからな』と静かにやさしく私を勇気付けてくれた。

 これまでたえにたえて来た私は、どっと堰をきって溢れる許りに止めどなく流れる涙をどうする事も出来なかった。

 妹の親友堅山さんが、二日間をかけて私の急を福岡、芦屋の光

明寺の父に知らせて下さり、父もまた妹を連れて一日半を要し、

途中歩いたりして、駆けつけてくれたのであった。

 持って生まれた宿業とはいえ、生死の関頭に立って、念仏を信

じ、これと対決して来た私は、御仏の慈悲によって生かされた人

生経験をかけがえのない尊いものと信じ、併せて多くの方々の善

意に感謝しながら、今も念仏に明けくれる日日を送らせて頂いて

いる。

 御仏の慈悲に生かされうつし身の

      念仏すがしく明け暮れる日日

 御仏のお慈悲で静かな、平和な地球上であることを、心よりお

祈りしたいものである。

―巡り来る原爆三十九回忌を前にして記―

 

「知恩」―総本山知恩院発行誌―

  昭和五十八年八月号に掲載されたものを転載

故 金子賢子 無礙光院温譽普摂賢純法尼 追悼のため(令和七年六月

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