私たちのありさまとご本願
- 金子 貫司
- 2020年9月14日
- 読了時間: 3分
更新日:2020年11月7日
暑い夏が過ぎ、早くも秋のお彼岸が近づいてきました。
お彼岸には、自分自身のありさま、心ざまを見直し、省みることが大切です。
自分自身を、深く深く、真剣に見つめられた方が、浄土宗の宗祖法然上人であります。
法然上人は、
「私たちは、貪り、腹立ち、愚かさという三つの煩悩が常に沸きあがって、知らず知らずのうちに罪を犯し、生き死にの世界をさまよい苦しむ凡夫です。さとりを得るような善行も少なく、遠い過去の世から永い永い間、迷い苦しみの世界を流転して、そこから逃れよう、離れようとしても、その縁すらなく、自分の力では、どうしようもない身であるのです。」
とおっしゃっています。
しかし、私たちはそんなに煩悩だらけで罪を犯しているのでしょうか。むしろ「私はまじめに生きています。罪なんか犯していません。」という思いの方が多くないでしょうか。
たしかに、法律を基準にすると、「私は罪を犯していません」と言えるかもしれません。しかし仏教でいうところの罪は、もっと厳しく深いものなのです。
私たちは、誰でも煩悩を持っています。
「欲しい、欲しい」という貪り(貪欲)、怒りや腹立ち(瞋恚)、愚かさ(愚癡)の三つは三毒とも言われる代表的な煩悩です。
煩悩は、それ自体が罪悪なのです。つまり、私たちが、この世に生きているということ自体が、罪を犯しながら生きているということなのです。
私たち人間の本性をたとえたユダヤの笑話があります。
ポラックとポッパーという二人が一緒に昼ごはんをとったのです。二人ともカツレツを注文しました。
すると、ボーイさんが、一つの皿に、大きなカツと小さなカツをのせてきました。
ポラックが、「どうぞ取ってください」とポッパーに勧めました。
ポッパーも「どうぞあなたがお先に」とポラックに言いました。
「お先にどうぞ」、「いや私はあとで結構ですから、あなたがお先にどうぞ」というように長いこと譲り合った揚句、ポラックが先に取ることになり、ポラックは大きなカツを自分の皿に取りました。ポッパーは当然残った小さい方を食べることになりました。
そして、食べ終わるとポッパーは、腹にすえかねたように、こう言いました。
「はっきり言ってポラックさん、私がもし先に取るとしたら、小さい方にしたでしょうね。」
こう言われたポラックは、訳がわからないというように、ポッパーの顔を見つめて、言いました。
「ポッパーさん、あなたはなぜ文句を言うんです。あなたのお望み通り、小さい方を取ったわけじゃありませんか。」と。
「あなたがお先に」、「いいえどうぞあなたから」とお互いに美しい譲り合いをしてみせても、相手より大きな方が取りたいものなのです。「自分が先なら小さい方を取ったのに」と言いながらも、結果としてそのようになったなら腹が立ってくるのです。そして、そういう自分が愚かであることに気がつかないのです。
私たち自身の本当の姿は、この笑話にある通りではないでしょうか。煩悩をそなえ、罪を犯しながらの日暮らしを繰り返し、さらに、そのこと自体に気づかずにいるのが私たちではないでしょうか。
江戸時代の高僧、徳本行者の
「盗みせず 人殺さぬを よきにして われ罪なしと 思うはかなさ」
というお歌が身にしみてまいります。
しかし、そんな煩悩まみれの罪深い私たちであるからこそ、阿弥陀仏は大慈悲のみ心で、必ずすくいとろうとご本願を成就してくださったのです。
生死の世界をさまよい巡って迷い苦しみから自分の力では離れられない私たちのために、いつでも、どこでも、誰でも、どんな時でも行うことができるお念仏をもって、称えれば必ず一人もらさずすくいとろうと約束してくださっているのです。
言い方を換えれば、煩悩まみれの私たちがすくわれる道は、阿弥陀仏のご本願であるお念仏の教えしかないのであります。
お彼岸には、自分自身を省みるとともに、阿弥陀仏を敬い慕って、今まで以上にお念仏にはげんでまいりましょう。
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