top of page
​長崎原爆の悲しみ
(平成7年執筆)
聖徳寺前住職 金子 貫司
わたしの原爆体験
​ 今年は終戦五十周年にあたります。最近の社会情勢の変化は、ほんとうにめまぐるしいものがあります。
しかし、私は五十年前のことを忘れることはできません。
 昭和二十年(1945)八月九日、私が疎開していた佐賀の片田舎にも、いち早く「長崎の浦上地区に新型爆弾が投下された。いきているものは全滅した。浦上一帯には今後七十年は草木も生えないそうだ」という噂が流れてきました。
 浦上地区は自坊聖徳寺のあるところ、寺を守っている母は、そして兄、弟は無事であろうか。十歳の少年であった私の胸に、深い絶望感が広がったことを、昨日のことのように思い出します。
 長崎に投下された原爆一発、爆発の瞬間には、強烈なマグネシウムを焚いたような一大閃光を発し、猛烈な輳音、爆風とともに火球を形成しました。その中心温度は数百万度に達し、たちまち半径二百メートルのきのこ雲となり、その表面温度は七千七百度であったと報告されています。
 その熱線・衝撃波・爆風・火災によって、すべての草や木、地上いっさいのものは破壊され、焼き尽くされ、爆心地から二キロメートル以内の地域は灰燼に帰したのです。
 爆心地から一・五キロの地に位地する聖徳寺は、本堂庫裡すべて倒壊したのです。
 周辺は一軒残らず焼失したのですが、不思議というか小高い丘の上にあったのが幸いしたのか、類焼は、免れることができました。
 聖徳寺の崖下防空壕付近は、何百人という女子挺身隊や連合軍捕虜がいました。腕や足をもぎとられ、髪、皮膚も全身焼け爛れて、二倍にも三倍にも膨れあがった顔、からだは、男か女かさえもわからないほどになっていました。
 「水を、水、水・・・・・・」と舌を灼き、喉を焦がし、のたうちまわる人たち。阿鼻叫喚の地獄絵が現前のものとなったのです。
 公式記録によれば、長崎原爆の死者は七万三千八百八十四人、重軽傷者は七万四千九百九人であったと伝えています。
    
​                                     
「昭和二十年(1945)八月九日、炎暑大地を焦がすような、灼熱の陽光がその日も長崎の街々にくまなく照り輝いていた。
  魔の午前十一時二分、忌まわしい運命の原爆一閃。青白い強烈な光の一瞬の記憶だけを残してわたしは昏倒してしまった。(中略)
それからどれくらいの時間が過ぎたであろうか。聖徳寺ご本尊、阿弥陀さまのお顔が、わたしの瞼いっぱいに
広がったのです。
慈悲の眼で見つめておられるお姿にすがりつくように、わたしは腹の底から、なむあみだぶつ、なむあみだぶつ、と称えた。無我夢中で仏のみ名を呼び続けた」
これは、いまは亡き私の母の手記『原爆一閃・私の体験記』の冒頭の一節です。
 当時の自坊は、三菱長崎兵器製作所の寮となっていて、百三十人の臨時徴用工の人たちが本堂に起居していました。
 寺族のものと、夜勤明けで床についていた工員さんは、寺院全体の倒壊を、全身で受け止めるように生き埋めになったのです。
 母、兄、弟は九死に一生を得て、奇跡的に救出され無事でしたが、多くの工員さんが犠牲になられました。
 聖徳寺周辺は、いたるところにおびただしい屍体の山が築かれ、くる日もくる日も荼毘に付す火が天を焦がしたのであります。
戦争犠牲者たちのメッセージ
今年は「五十周年慰霊法要」が、各方面で執り行われることになっています。
 この五十周年という大きな節目の法要を迎え、戦争がいかに悲惨で、計りしれない犠牲をともなう、愚行であったかを肝に銘じ、世界恒久平和誓願の思いを新たにすべきであります。
 原爆中心地を見下ろす城山の丘に、三菱電機製作所の慰霊塔があり、毎年慰霊法要が執り行われています。
 昨年、この地での「五十回忌法要」が終わった時、老年のかたが来られ、導師の私に訴えるように言われました。
  
​ 
「わたしは旧職員で、いま、鹿児島に住んでいます。この慰霊法要だけは毎年欠かさず参列しています。
ここにお参りすることが、私の生命の原点に返る思いがするからです。
五十年前のあの日も、ちょうど今日のようにじりじりと焼けつくような暑い日でした。
手を合わせ、念仏をお称えしていると、陽炎に揺れる慰霊碑の向こうに、飴のようにグニャグニャになった工場の鉄骨、そして数多くの昔の同僚の顔、顔、顔・・・が真っ正面に見え、叫び、呻き、嘆きの声が耳朶にはっきりと聞こえました。感無量になり、思わず目に熱いものがこみあげてきました。
祖国の勝利をただただ一筋に信じて、昼夜を分かたず兵器の生産に邁進し犠牲となった同僚、日本は敗れて、あなたがたは何一つとして報われることはなかった。
その累々たる屍の上に、今日の日本の繁栄があったことを身も心も凍る思いで、あらためて思い知らされました」
​と。
慰霊塔を前にして、しみじみと語られるその目には、涙が光っていました。

   原爆地に立ちて
   地の声を聞く
   戦いを止めよという
   地の声を聞く

   原爆地に立ちて
   天の声を聞く
   矛を収めよという
   天の声を聞く

   原爆地に立ちて
   人の声を聞く
   世を平和にせよという
   人の声を聞く

 これは坂村真民の詩です。灼熱の太陽に焼きつけられた「原爆慰霊碑」に耳押しあて、耳そばだてて聞くとき、長崎原爆七万四千犠牲者の、その平和への叫びが聞こえてくるのです。
 それだけではない、広島二十万、沖縄二十万、その他日本各地の犠牲者の声が。またずっと遠く、ビルマ、シベリア、アウシュビッツ等々、全世界の、敵味方合わせ、三千五百九十万人もの戦争犠牲者の発信する呻き、叫び、メッセージが伝わってくるのです。
 この声を聞き、みずからの襟をただす時、真の平和への道筋が見えてくるのであります。
 いま、世界では、口に平和を称えながら、民族、宗教の正義の名のもとに戦争が絶えません。
世界軍縮会議が開催されている一方で、中国や米国、フランスも核実験を再開しようとしています。
 戦争は法然上人の教えに悖る行為であります。念仏こそ怨親平等に敵も味方も救われる原点であることを知らねばなりません。
「共生」への道
法然上人は、幼名を勢至丸といわれました。九歳のとき、お父上の時国公は源内武者定明の夜襲を受け、瀕死の傷を負いました。
 勢至丸は、武士の子の習いとして
 「父上、この仇は必ず晴らします」
と誓うのでしたが、父時国公は、虫の息のなかにもはっきりと
 「わしの仇を取ってはならぬ、定明の子はまた、お前を仇として狙うであろう。恨みに報いるに恨みをもってしたら、恨みの絶えることはない。恨みなくしてこそ、恨みは絶えるのだ。お前は、わしのの菩提を弔うとともに、敵も味方も救われる道を求めなさい」
のことばを残して息絶えられたのです。
 勢至丸は、「父の遺言忘れ難く」比叡山に学ばれ三十年、厳しい修行の末、敵も味方も救われていく、万民救済の念仏の法門をお開きになられたのです。
 戦争は二度とあってはならない。原爆の惨劇は世界に再び繰り返してはならない。
 いま、第二次大戦で亡くなられた、かつての敵味方合わせて、三千数百万のみ霊の五十周年の法要を心よりお勤めし、慰霊と懺悔、誓願の誠を捧げなければなりません。
 この合掌の誠、供養の心こそが怨親平等、敵も味方も、ともどもに救われてゆく道であることを、いつまでも忘れることなく、心の座標としていくときに、『無量寿経』に説く
  国豊かに民安くして
  兵戈用うること無し
という真の世界平和、「共生」の道が開かれていくのであります。

[参考文献]
 『ナガサキは語りつぐ』長崎市編、岩波書店
​ 『原爆一閃・私の体験記』金子賢子著(「知恩」誌掲載)
bottom of page