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​聖徳寺の歴史
寛永3(1626)年
寛文10(1670)年 
浄土宗の大本山の一つ、久留米市の善導寺の直接の末寺として専誉玄蹟上人によって開かれる。
一説に聖徳太子御作と言われる阿弥陀如来像を本尊とするので「聖徳寺」と名付けられたと伝えられる。
第三代 一譽傳軟は、本堂を再建し、稱名庵(歴代住職の隠居所)、攝取院、無量院の三院を寺内に建立した。
大悲寺、大浦の浄土宗大浦教会説教所等は当寺の末寺であった。
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​開山 専誉玄蹟上人
貞享元(1684)年
享保13(1728)年
文化5(1806)年
第三代 一譽傳軟は、当麻曼陀羅を建立した。
第七代 教譽傳達は、梵鐘を建立した。
唐津藩主 水野忠光は、長崎警備の際の屯所として、寺内に仮屋を建て、仏供米として年25俵を寄進した。
昭和20(1945)年
原爆投下により、十一間四面の本堂、寺宝、鐘楼、庫裡、貴重な資料などのほとんどが失われた。
倒壊を唯一免れた本堂前の大灯篭一対は、戦後、松山町の爆心地の公園に原爆遺構として据えられている。また戦後の都市復興計画に協力して、境内の一部を国道に提供した。
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​被爆した聖徳寺
昭和23(1948)年
昭和25(1950)年
昭和28(1953)年
昭和42(1967)年
七間四面の木造仮本堂が完成、原爆後に建った本堂として市民の注目を集めた。
聖徳保育園を設立した。
ルンビニー幼稚園を設立した。
滑石中央幼稚園を設立した。
昭和45(1970)年
現在の本堂が建立され、浄土門主(総本山知恩院の住職)の来駕を仰ぎ、落慶法要が盛大に挙行された。本尊は文化勲章受章者で平和祈念像の作者である北村西望氏によるブロンズ製の阿弥陀如来像である。
昭和61(1986)年
​平成15(2003)年
平成20(2008)年

​平成29(2017)年

​平成30(2018)年

先々代住職 金子貫達師は、大本山善導寺(久留米市)第六十四世法主に推戴された。
ピッパラ保育園を設立した。
無量院を檀信徒会館として再興、建立した。

​永代供養墓「法輪廟」を建立した。

​原爆慰霊・恒久平和祈念塔 パコダを建立した。

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